海神丸ー付・「海神丸」後日物語ー
2010-07-08


海神丸ー付・「海神丸」後日物語ー,野上弥生子著,緑49-1

 漁船が漁に出て遭難し、そこに乗った三人の男のうちひとりが、飢えに負けて最も若い青年を殺害し、食らおうとした――という実話を基にした物語である。あくまでこの小説自体はフィクションで、実際に起こった出来事と内実は異なっていたようなので、これは実録やルポルタージュではなく、心理劇として捉えるべきだろう。
 ただ、心理劇とはいっても、たとえば「蝿の王」のような、ある種の極限状態で人間倫理が打ち砕かれる異常心理をカーニバルのように描くものではなくて、ずるずると重く陰鬱に、そしてあまりすっきりとしない形で描いていく。そのため、「異常心理」というラベルがもたらす、狂騒的なカタルシスはない。
 物語は、誰の心にも寄り添わず、かといって突き放すのではなく、重苦しく船にのしかかる太陽の光のように事実と心理を描写する。結局、殺人は行われるが、殺人者はそこで我に返って食人には至らない。物語の軸は、食人という異常事態ではなくて、むしろ殺人自体に置かれているように思える。
 だから、極限状態の異常心理をサイコミステリーのように味わおうと期待すると、恐らくこの物語では肩透かしをくらう。ここにあるのは、もっとありきたりな、けれど大きな心理的ハードルを”越えて”しまった人物たちの物語である。

 何かの教訓のようなものを、無理矢理引き出すとするならば、遭難のような異常な事態に耐えうるためには、心を支えて事態の責任を自らに「引き受ける」ことが必要なのだろう。
 殺人を犯すやや老いた漁師は、本来その船に乗りたいとは全く思っておらず、むしろ年末をゆっくりと自宅で過ごすつもりだったところを、船長に半ば無理矢理漁に連れていかれ、そして遭難事故に遭う。彼は船長を恨み、運命を呪う。船長が非常な飢餓に耐え、己を持ち堪えたのに対し、漁師がそれに挫折するのは、恐らく事態を己のものとして引き受けず、「自分以外の誰かのせい」として外部に放出してしまったからであろう。つまり苦痛は、己のものとして甘受することでしか耐え切ることはできないのだ、というのが、この物語のかろうじて表現する結論であろう。

 先にも述べたように、この物語は極限状態の異常心理を持ち出して、「人間はこんな恐ろしい心理を隠し持っている」と叫ぶタイプのものではない。いわゆる異常殺人鬼のルポなどを読んだ後の、血と暴力と奈落のもたらす興奮状態(そう、地獄は興奮をもたらすのだ)は、この物語には無縁である。
 ここに描かれるのは、暗鬱で重苦しいリアルな殺人である。ファンタジーの中の暴力、そしてファンタジーを強いる殺人鬼の暴力と違って、現実の暴力は常にそういう、やりきれなくて重くて何も解決してくれない代物である。この物語の殺人は、そういう種類の殺人だ。答えはなく、カタルシスもない。
 だから、この物語は読後感が割り切れない、曖昧なものである。面白いかと問われると、答えにくい。好きとも言えないし、面白いとも言えない。だが何かはあるとは言える。
[岩波文庫を読む]

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