奇跡
2006-08-03


二通りの人間に分けるのなら、「この世には奇跡なんて絶対起こらない」という人と、「この世は奇跡に満ちあふれている」という人に分けられると思います。私は、後者。でも別に、これは世界の捉え方の問題であって、人間の価値に直結するとは限りません。そのひとの価値が、結果的にそこに多少左右される人もいると思いますが。
たぶん、私が奇跡に満ちあふれているのは、善き結果が起こる可能性を広く広くとっているからで、要するに窓を少し大きめに開けているだけのことです。
奇跡というと、神様とか宇宙の意志とか何かそういう超越的なものが、人間が必死で施錠してタンスで塞いでいるドアを、力任せにこじあけて押し入ってくるようなイメージが、世間一般にはあります。要するに、常識とか科学とか理屈とかを完膚無きまでに否定するような「信じられない出来事」ってやつが、突然人間の意志と全く関係なく起こること。
処女が出産するとか、死んだ人が生き返るとか、傷が一瞬にして治癒するとか、ガンがみるみる消滅するとか、何一つ勉強も準備もしていない受験生があっさり東大に合格するとか。
どうしてもこういうことが必要になったら、まぁ神様や宇宙の意志さんも、仕方ないから大盤振る舞いをするような気もしますが、実際にはそういう奇跡ってそれほど必要ないように思えます。
神様だって、強盗みたいに人の心になだれこんでくるよりは、親しい大切なお客様みたいにやってくるほうが楽しいんじゃないでしょうか。
何か、大切な人を助けたいとか、導きたいとか、したいことやらねばならないことがある時に、強制的に介入するのではなくふわりと自然にそれが成るようにし向けること。最近の神様は、そっちの方がお好きなのではなかろうかと。

昔、ライアル・ワトソンが生命の誕生を、ゴルフに例えていたのが面白かったです。
ひとつのボールがコースのどの地点に落ちるかは、理論的には無限の可能性があるはずです。まぁコースによって多少の「落ちやすいところ」「落ちにくいところ」はあるでしょうが、理屈ではどこに落ちたっておかしくない。
でも、ゴルフのボールが落ちたところには、確実に一定の傾向があります。そして、時間さえかければ、コースのある一点(カップが置いてあるところ)には、絶対にボールは落ちるのです。
それと同じように、生命の誕生というものは確率的にはありえない偶然の連続だけれど、もしかしたら同じような何かが働いているのではないか。生命の誕生は、カップの置いてあるあの一点のように、色々なものがそれめがけて押し寄せるところだったんじゃないか、という話です。
(「ネオフィリア」という本に書いてあったと思います。「シークレット・ライフ」だったかも知れませんが)

このたとえを借りるなら、奇跡というのをホールイン・ワンしか認めないか、それとも何ストロークかかろうともカップに落ちることが奇跡であると認めるか、が考え方の違いなのでしょう。
別にどっちをとろうと、その人がより幸福により善く生きられるのなら、そして他人に強制しないのなら、構わない訳ですが。
私が、奇跡がたくさん起こるように窓を大きく開けているのは、その方が私にとっては楽しく生きられるからです。
開けていると、色々な素敵なことが入ってきます。よからぬものも入ってくるのでしょうけど、結構、見分けはつくものです。

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