2012-01-22
けれどその解釈について、おせっかいに誰かがしゃしゃりでて、「観る人がわからないといけませんので」と言わんばかりに説明を始めるようなことは決してありません。
これはものすごいことです。ドキュメントしている対象と、そして映画を観るであろう人々、その双方に対して、とても大きなリスペクトがなければできることではありません。
ずいぶん昔のことですが、たまたまある聡明な友人と会話をしていて、フランス映画の話題になったことがあります。今も昔も私のフランス映画の知識など乏しいものですが、フランス映画が非常に難解で、ハリウッド映画のようなわかりやすく一般的な感動を与えてくれるものとは対極に位置しているというイメージだけはあって、そんなことを話した記憶があります。
「フランス映画って、何であんなにわかりにくくて難しいんでしょう。フランスの人って、ハリウッドみたいな明るくてわかりやすい映画を観ないんでしょうか」
そんなようなことを言った私に、聡明な友人はこんな答えを返しました。
「たぶんフランス映画の考え方では、理解して解釈する過程が映画を観るということなのに、すでに解釈されてたら映画を観る意味がないからでしょう。ハリウッドみたいにわかりやすい映画は、他人が噛んで消化した食べ物を皿に載せられて、さあ食べろと出されてるような気がするんじゃないですか」
この聡明な答えは、感覚的に腑に落ちる感じがして、その時もいたく感心したものですが、最近はこのことが、骨身に染みてわかってきたように思います。
私は、そんな難解な複雑な映画をたくさん観る良き鑑賞者では全くないのですけれど、「わかりやすい」作品というものに対する欲求が、年々なくなっていくのを実感しているのです。
それは押しつけがましさへの反発もあるけれど、それ以上に、「愛と感動の名作とわかっているのなら、何故それを私が時間をかけてわざわざ観て、愛と感動の名作という感想を確認する必要があるのだ?」という率直かつ大きな疑問です。
もちろん、観賞には「共有」という要素がありますから、みんなと同じ感想を抱くことに意味があるのもわかるのですけれど。
この映画は、完璧なまでに色も味も香りも熟した果実を、しかしそのまま皿に載せて出すのではなく、ほんのわずかな手を加えて完璧な「料理」にして出したかのようです。
恐らく、この「素材そのままであるかのように見える」映像を作り上げるまでには、エル・ブリのスタッフと同じくらい、映画製作のスタッフたちも試行錯誤し、実験を重ね、試作を生み出しては捨てという果てしの無い作業を繰り返したのではないかと思います。
そこまでしてなお、全ての理解も解釈も、受け手に惜しみなく委ね、説明すらせずに信頼して引き渡すという潔さ。
本当に、久しぶりに、私は映画鑑賞において、監督の意図を読むのではなく、「自分がこの映画から何を得るのか」を問われたような気がします。
それは、私が久しく映画を観なかった理由のひとつであり、そして私がこの映画に惜しみない賛嘆を送る理由でもあるのです。
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